医療被害を受けた場合、相談機関はあまり役に立たない
先日私の家である家電が壊れたのですが、修理ダイヤルにいくら電話をかけてもつながらず、結局買いなおすことになりました。
そのときすごく思ったのが、
「このお客様安心ダイヤルの存在って医療被害にあったときの相談窓口とすごく似てる!!」
ということです。
たとえば物を買ったときに「安心ダイヤル」や相談機関の連絡先がついていると人はすごく安心すると思います。
「いざというときは相談できるところがある」
というのは人の心に大きな安心を与えることであると思います。
しかし、この「安心ダイヤル」や相談機関がどれほど有効なものであるかは、実際に被害にあってみないとわからないものであると思います。
そして医療被害の場合、この安心ダイヤルはあまり役に立つものではありません。
医療被害を受けたときにも、この世界にはいろいろ相談する機関や相談するためのダイヤルが存在しているように見えます。
私はレーシックの被害者になったときに、当たり前ですが公共の相談機関にいろいろ相談をしました。
相談をした目的は主に2つです。
・レーシック被害に関する注意喚起のお願い
レーシックではすでに被害者がたくさんいて、ガイドライン違反なのに手術が行われた人も多かったので、このことを世間に注意喚起したりしてほしかった。
・レーシックをしている眼科専門医に対する警告のお願い。
ガイドライン違反を行っているのが日本眼科学会が「手術をするなら眼科専門医の元で受けましょう」と宣伝している眼科専門医だったので、その事実を知らせるとともに何とかしてほしかった。
被害者で協力し合ってお願いや被害届を消費者センターに行ったり消費者庁に連絡したり厚生労働省に連絡したり日本眼科学会に連絡したりしました。
でも、その時点(=複数人数ではあるが一般民間人である患者が対応をお願いした場合)ではちゃんと動いてくれたところは余りありませんでした。
簡単な感想を書くと、
一番良かったのが後にレーシックの注意喚起に動いてくれる消費者庁。
そして残念な思いをしたのがその時の日本眼科学会でした。
※日本眼科学会の対応は消費者庁のレーシックに関する注意喚起の発表があってから少し変わってきたようです。
そのとき心底感じたことは「相談機関は一臂あるけれど、被害者になったときはどれもあまり動かないものなんだな」
「一般人の言うことは奇跡でも起こらない限りなかなか聞きいてもらえないんだな」ということです。
「奇跡でも起こらない限り」というのは比喩でもなんでもなく、実際にそうです。
いろんなことがありましたが、オーソドックスなケースとしては、ある部署に電話をかける「そこはこの部署の担当ではない」という話になり、あらゆる部署に回されるというケースです。
長い書類を痛い目でやっとこさ書いて数日費やした後に最後にまた振り出しに戻ることも少なくありませんでした。
悪意があってそうされる場合もありますが、特に悪意がなく部署的に忙しすぎて(というか、今メインの仕事がそちらではないという理由で)そうなっているというケースも結構多いです。
なんというか、その忙しさの中で被害者の苦しみの訴えがすりつぶされて、消費されていっているような印象を受けました。
「すりつぶされる」というのは、訴えても訴えても事態が動かなくて、次の部署にまわされて・・・ということを繰り返していると、精神的に疲れてくるんです。私も一人だったら途中でやめていたのではないかと思います。
あの「システムの壁」とも言えるような壁を越えるのは一般人ではすごく難しいんじゃないかなと思います。人生分のエネルギーをかけて訴えないと、あの壁はなかなか壊せないんじゃないだろうか。
だから「安心ダイヤル」や「困ったときはここに相談」なる機関の連絡先が明記されていたとしても、もはや被害者となってしまった自分にはそれを素直に信じるのは難しい気分です。
そのダイヤルは、「かければ相談に乗ってくれて、適切な対処法を教えてくれる」野ではなく、単に別の部署へのたらいまわしの入り口かもしれません。
そう思うと、この「安心ダイヤル」「相談機関」なるものの存在が、単にそのときだけ人を安心させるために明記してあるもののように思えてならない時があるんです。